瓦を割って食べてみた

瓦を割って食べてみた

鉄道・交通に関するニュースや思いついたことを取り上げます。

鈴虫

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鈴虫やロフトに届けば子守歌

あくびして鳴く鈴虫かな夜の窓

鈴虫や今宵は夜風に震えたり

鈴虫や鬼を憎むなかくれんぼ

鈴虫や今宵は吾にだけ震わせて

副反応支えは鈴虫の音色かな

鈴虫の音色求むる枕元

泣き顔を横目に鳴くの鈴虫は

鈴虫や子を思う声故郷から

鈴虫や孫とおしゃべり三回忌

鈴虫やカーテンゆらす夜風かな

鈴虫やジャスコのネオンは消えにけり

 

俳句は人を人へと近づけるもの

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俳句初心者の筆者が、名句や入選句を写生していてふと感心することがある。

 

「人間ってこういう瞬間に感動するんだ…」

 

俳句の面白さはまさにそういうところ。当たり前と言われるかもしれないが、まさにそこに筆者は心を動かされているのだ。

 

脱線するが、筆者はまちづくりのゲームが好きである。思えばかなり昔からやっていた。小学校では「シムタウン」、中学・高校では「シムシティ3000」「シムシティ4」など。そして現代では「Citys Skylines」だ。自分の思う通りに街を作る楽しさ、リアルさはとても素晴らしい。どんどんこれらのゲームにはまっていた。

 

しかし、最近気づいたのだ。このゲームをやっていて、このゲームの世界の中に引き込まれて、このゲームの世界に一人生きて、誰とも話さず、ひきこもって、現実の世界はもっと楽しくなるのだろうかと。少しでも現実世界でイキイキと自分らしく生きるためのツール、使い方はあるのだろうかと。

 

もちろん本格的なメイキングをしている制作者には脱帽だし、素晴らしさを否定するものではない。今ではYouTubeやコミュニティでツールや面白さを共有する手段があるし、なんといってもストレス解消になるわけだ。人それぞれの楽しみ方があるし、趣味の一つとしてはとても有能だ。

 

おもしろしすぎて、はまって、何時間もゲームをやって日が暮れる。そして、今日の一日って何だったんだろうなと思ってしまう。それを共有すればもっと楽しいのかもしれないが、正直他の人の作った街で感動したのは本当に一握りだ。「きれい」「美しい」「こんな街に行ってみたい」と感動するが、それ以上の衝動はない。「人は人。人それぞれでいいじゃない」それで終わり。

 

知らないうちに心の中では気づいていたのだ。久しぶりにリアルに友人に会ったりすると、もちろんその場はそれなりに楽しんでいると錯覚している。しかし、別れてからの電車の中で無意識に思っているはずだ。「僕の街では普通だったことがこの現実では理解されないのだ」「ここで笑うのは僕の街では普通なのに、この世界ではタブーなのだ」と。そして傷つき、また殻にこもるように街づくりをせっせと始めるのだ。

 

筆者はこのまちづくりのゲームを勝手に「現実世界」から逃避するための隠れ蓑として使ってしまっていたのだ。ゲームが悪いのではない。ゲームとの向き合い方を間違えていたのだ。

 

そんな今、出会ったのが俳句というツール、いや、宝箱なのだ。

 

俳句は、川柳や和歌と違って感情をあまり読まないことが多い。あくまで写生に徹し、感情は読み手にゆだねるのだ。その句に隠されている感情は何かを推察する。俳句を鑑賞し、詠むことは、人をもっと知ることなのだ。そして現実社会をもっときれいな、本当の意味で楽しい、嬉しいと感じられる世界を作っていくための手段なのだと。

 

キャッチコピーに似ているかもしれない。ただしキャッチコピーは会社のメリットを伝えることに毒々しさというか、ずるさを感じてしまう。コピーは会社からお金をもらっているからこそ、その会社のために作らないといけない。それで生業を立てている人もいるから当然である。しかし自分が思った会社に対するイメージをどうしても変えられなかったり、すぐに人の話を信じてしまう人(いわばクレームに対して言い返せないからそのまま受け取ってしまう人)は、苦しんでしまうと思う。それなら俳句から始めればいいじゃないか。俳句はある程度自由に作れる。利害関係も何もない。

 

 

 

もっと俳句を作っていきたいと思うようになったこの頃。

 

創作とは人を知ってこその独創性である。

 

俳句は人を人へと近づけるもの。

 

「色鳥の声や吾からのしらべかな」